「令和」になって思った事。

このゴールデンウイーク、平成天皇が退位し、新しく令和の天皇が誕生した。これまでの平成30年間のなかで天皇、皇后両陛下が残した足跡として数多く取り上げられた報道は、先の第二次世界大戦の犠牲となり亡くなった人々やその家族、また平成の中で幾度と発生した大規模な自然災害に巻き込まれた人達の苦しみや悲しみに真摯に思いを寄せ、自ら近くに寄り添う姿勢だった。両陛下は直接、被災地へ出向き、災害に遭われた人々を敬い、励ましの言葉をかける行いを続けてきた。その自らが掲げた使命を全うする姿に僕自身、振り返る思いがあった。

母が生まれ育った故郷、福島県相馬市、先の東日本大震災による津波福島原発事故によって多くの被害が発生した。僕は母をすでに亡くしていたが、相馬市で生活する親戚の人達は幸い無事ではあったがその大きな災害に飲み込まれた。災害発生直後、東北から関東一帯は混乱し親戚の人たちとの連絡も繋がらない日々が続いた。私自身、親戚との付き合いも離れていたことがあって心配な気持ちはあっても、被害を受けた人に対して寄り添うことはできなかった。自身の無力感を勝手に抱き余計に身を引いてしまった。電話もできず、だた遠くから見て見ぬふりをしてしまった。震災から3年の月日が経ち、復興の兆しが見えてきたころ、僕のことをかわいがってくれた叔母のひとりが亡くなったとの知らせを聞いた。どんどんと遠ざかっていく僕と故郷、福島との距離。このまま離れてしまっていいのだろうか? 父も軽い程度の認知症と心臓の病による体力低下で遠くへ出かけることも難しくなってきたと分かってきたとき、私は父を連れて相馬の親戚たちに会いに行く決心をした。

震災当時、災害に遭われた親戚の人たちへ寄り添うことができなかった私たちをどのように思っているだろうか?そんな不安を抱きながら僕はハンドルを握っていた。茨城から常磐自動車道福島原発事故の影響で海岸沿いの自動車道は閉鎖中。一旦、福島県中通りと呼ばれる、郡山、福島市内を抜けて再び海岸沿いの相馬市を目指す、5時間を超える長距離運転、目的地が近づくにつれ次第に昔見た景色が思い出された。主要道路沿いには復興によって大型小売店やチェーン外食が並びその変化に違和感を感じながら宿泊先のホテルに到着した。

一晩明けて、約束の日、懐かしい親戚の人たちと久しぶりの対面を果たした。昨年亡くなった叔母さんのお墓参り。昔、お世話になったお返しは何もできなかったけど、会いに来たよ。できればもっと早く生きている間に行けばよかったけど、あまりの大きな出来事にどうしたらいいのかわからなかったんだ。町が流され、家が流されて、そんなときに会いにいって、逆に気を使わせてもいけないし。茨城から見たら相馬市は福島原発を超えた向こう側にあって、状況もよく分からずに行ってもいいのだろうか?とか。震災に遭われたことに対して何もしてあげられなかった僕たちだったけど、集まってくれた親戚の人達は僕らを優しく迎えてくれた。お墓参りを終えた後、僕たちは海岸沿いの海鮮料理店で会食した。海岸通り、震災前にあった街、住宅には津波が押し寄せ、今では整地された土地だけが広がっていた。特産のホッキ貝の料理を頂く。長い月日が経ち、ようやくの再会。母を早くに亡くし、距離が離れていたこともあって付き合いも離れてしまったことは仕方のないことかもしれない。しかし震災を超えて、自ら会いに行くことができて本当によかった。僕の心の中にあったわだかまりがすこしづつ溶けてゆくのと、親戚の人たちの明るいおもてなしに僕は感謝の気持ちでいっぱいだった。

あれから、また月日は流れて時は平成から令和へバトンタッチされた。そしてまた僕と福島の距離は離れたものとなっていた。街を歩く途中、大学生のボランティアたちが大声て募金の協力を募っていた。東日本大震災の復興のため、明るいパフォーマンスで呼びかける大学生の呼びかけに立ち止まり、僕は募金をした。募金を終えた僕にひとりの学生が僕に問いかけた。「なぜ、今回募金に協力しようと思ったのですか?」「みんなの明るい声に、応援したいと思ったから」僕はそう答えた。普段、離れている僕ができる事は立ち止まり募金に協力することぐらい。今度は僕の方から手紙でも書いてみよう。それが今の僕ができる精いっぱいの「人によりそう」というかたちだから。(終わり)