僕はギターを弾く。ほぼ毎日。会社から帰宅して夕食を食べた後、30分から1時間ぐらい。これ以上長く弾いているとそれだけで1日が終わってしまうので時間が来たら止めるようにしている。僕は妻と二人暮らし。僕はTVがついているリンビングで練習曲が弾けるようになるまで毎日、同じ曲をつっかえ、つっかえ弾いている。1曲覚えるのに2、3カ月かかる。僕は譜面が読めないので、最初は見ながら弾いているが、最終的には指が覚えるまで毎日同じ曲を繰りかえす。いっしょに過ごしている方は毎日いい迷惑かもしれない。もしあなたの彼がギター弾きだったら注意が必要かもしれない。いっしょに過ごすようになった彼は、ギターばっかり弾いていて毎日、話はうわの空かもしれない。そして1台のギターでは満ち足りず2台、3台と高価なギターを買いあさるかもしれない。そしてバンド仲間とつるんでは飲んでそこでもギターを弾いているかもしれない。ギターを弾く男には気をつけた方がいい。
昨日見たTVである夫婦のピアノのまつわる愛の物語が紹介されていた。仕事に没頭し家族と過ごす時間がとれなかった夫、家事、子育てと夫を支える妻、そんな妻にとつぜん癌がみつかり残り余命わずか半年が告げられた。夫はこれまでの仕事優先の生活をあらため妻との残りわずかの時間を大切にするようになった。ある日、妻は昔を思い出しながらこんな一言を夫に言った。「あなた、約束を守ってくれなかったわね。」それは、二人が若いころ、いっしょにTVドラマを見ていたときの出来事だった。そのころ人気ドラマだった「ロングバケーション」、そのドラマの中で木村拓哉が演じたピアニストを目指す主人公が弾いていた曲が「セナのピアノ」という題名がついたピアノ曲。妻はその曲がとてもお気に入りだった。
そんなドラマに見入る妻に夫は「俺もピアノを弾いてこの曲をプレゼントする」と言ってしまった。それを聞いた妻も「それじゃ、約束ね」と笑って答えた。そのときは軽い何気ない会話にすぎず、夫は仕事の忙しさからピアノの事などすっかり忘れてしまった。しかし妻はそんな些細な思い出をしっかり覚えていた。そして余命わずかとなった妻から言われた「約束、守ってくれなかったね」という言葉はそれ以来、夫の耳から離れることはなかった。ふさぎ込みがちの彼女を心から喜ばせるには何をしたらいいだろう。そんな事を考えるようになった夫は「セナのピアノ」を弾いて妻にプレゼントしようと心に決めた。しかしこれまでピアノなどやったことがない夫にとってそれはかなり高いハードルだった。妻にピアノの練習をしている姿を見せるわけにはいかない。彼は妻に隠してピアノ教室に通う生活を始めた。一刻も早くピアノをマスターしなくては。しかし初めて習うピアノは彼にとって簡単ではなかった。教室に通い、あるときは会社を休んでピアノルームを借りて練習を重ねた。そして約束を果たす日がやってきた。彼はある音楽ホールを借りてそこに妻と娘を招待した。客席で待つ二人。そしてピアノが置かれたステージの前に彼は立った。彼は指の震えを抑え「セナのピアノ」を弾き始めた。「セナのピアノよ。私が大好きな曲」娘に話かける妻のその声はとても嬉しそうだった。たどたどしくも精一杯、彼が奏でる心がこもった旋律、彼は最後までその曲をやりきった。ピアノの先生も「初心者には難しいですよ」と念を押されたが彼はあきらめず、そしてやりとおした。練習しながら彼は思った。「ピアノより彼女のそばにいてあげる事のほうが大事じゃないか?」「彼女は喜んでくれるだろうか?」しかし彼は「妻との約束を果たしたい。きっと喜んでくれるに違いない」その一心で練習に打ち込んだ。演奏を終えて彼は客席の妻のもとへ。「ありがとう。あなた」彼の目の前には嬉しさに満ちた妻の笑顔があった。そしてその日から3カ月後、妻は天国へと旅立った。
妻の旅立ちからしばらくして彼は遺品の整理をするため彼女が愛用していたPCを開けた。画面にあるアイコンを開くとそこには、あの日、約束を果たすためピアノに向かう自分の動画が映し出された。決して上手とはいえない自分のピアノ演奏、しかし彼女は最後の時までその映像を大事そうに見ていた。そう、その演奏は彼女にとって最高のプレゼントだった。そして最愛の妻を失った夫が今もかかさず行っている事。それはピアノを弾くこと。ピアノを弾くこと、それは彼にとって日々、最愛の人の事を思う証となった。
楽器を奏でるとき、そこには誰かに伝えたい想いが宿っている。そしてこの先、僕もギターを弾き続けるだろう。もし、ひとりになる日が来ても、その音色は僕をやさしくつつみ楽しかった時に僕をいざなってくれることだろう。